「暗夜行路 前編」,志賀直哉,岩波書店

暗夜行路〈前篇〉 (岩波文庫)
自分が父から兄弟と違う扱いを受けていることを不審に思う,主人公・謙作.彼は,実は,父の子ではなく,祖父の子であることを後に知る.そのため,幼いときに母がなくなると,祖父に預けられる.その祖父を嫌う謙作.どこか下品な感じが好きになれなかった.その祖父の愛人,お栄に優しく育てられた.そのお栄に徐々に好意を抱き,結婚したいと思うようになる.年は20以上も離れている上に,亡くなった祖父の愛人.当然うまくいくはずもなく,お栄は断る.その仲立ちをしてくれた,兄の信行.信行は,謙作が家族で唯一信じている人物である.その信行が,思わず父に話してしまったことで,父は激怒する.

その父は,以前ある女性(実は謙作は祖父の子なので,近い親戚になってしまう)と結婚したいので話をつけてくれというと,「勝手にしろ.知らぬ」ととても冷たく言い放ったくせに,今度は怒る.これに謙作は,全く矛盾していると憤るのである.父の怒りも分からぬではないという信行.なぜなら,父は,母の祖父との間違いを許したという過去があり,それはずいぶんと歯を食いしばることだったろうと思うからである.そういった間違いを忘れようとしてきたのに,再び目の前で始まろうとする間違いに大いに怒っていると考えるのである.

前編は,このように結婚を切り出したものの断られる.この間,謙作はふと一人になりたいと思い,尾道へ行き,信行やお栄とは手紙でやり取りしている.そして,とうとう東京に戻ってくる.さてこのあとは?後編に続く.


心に残ったシーンを,続けざまに書いておく.

(兄・信行の友人で謙作の面倒をよく見てくれた石本について述べた下り)
いつまでも石本は先輩で,謙作は後輩だった.それはいいとして,今の謙作には昔ながらの石本の自分に対する老婆心がだんだん閉口になってきた.同じ自分の事を心配してくれるのでも兄の信行のはそののんきな性質の内に神経の行き渡ったところがあるだけに彼にはそれほど気にならなかったが,石本には絶えず何か教えようとする気が見えるので,好意は認めながら彼は時々腹を立てた.

自分にもよく言い聞かせたい.

(石本の次のような発言を受けて,謙作が考えたこと)
道々石本がだれかの言葉として言った「若い二人の恋愛がいつまでも続くと考えるのは一本のろうそくが生涯とぼっていると考えるようなものだ」というのをふと思い出した.

「なるほど最初のろうそくはある時に燃えつくされるかもしれない.しかしその前に二人の間には第二のろうそくが準備される.第三,第四,第五,前のが尽きる前にあとあとと次がれて行くのだ.愛し方は変化して行っても互いに愛し合う気持ちは変わらない.ろうそくは変わっても,その火は常燈明のように続いて行く」

(時代背景を楽しむ.謙作が病院へ行ったときの話し)
「電気はまだ来ないかネ?」
看護婦は壁のスウィッチをひねったが,まだ来ていなかった.

日が暮れないと,電気が来ない時代だったのである.

(信行が謙作を評していう)
「近ごろおれは,つくづくお前をうらやましく思う.ある意味で,−運命的にというのか,境遇的にというのうか知らないが,そういう意味ではお前はおれより不幸な人間だ,しかし性格的にいうと,はるかに幸福な人間だと思う.しかも,どっちが,より幸福かといえばもちろん性格的に幸福なほうがほんとうの幸福だと思ったよ」

(謙作がある数奇な人生を歩んでいる芸者をモデルに小説を書こうとしている下り)
もともと女は運命に対し,盲目的で,それにひきずられやすい.それゆえ周囲は女に対しいっそう寛大であっていいはずだ.子供の事だからというように,女だからといって赦そうとしてもいいはずだ.ところが周囲は女に対してなぜか特に厳格である.厳格なのはまだいいとして,周囲は女が罪の報いからのがれる事を喜ばない.罪の報いとして自滅するのを見て当然な事と考える.なぜ女の場合特にそうであるか,彼は不思議な気がした.

女性の社会進出や男と平等であるという考えが徐々に出てきたものの,まだ反発が大きかった時代である.ただ,今でも十分通じるのではないか.女性がまだまだ男性の多いビジネス社会に出るには,男性以上の神経の細やかさ,大胆さ,知識が必要とされているように思う.そして,女性にたいstそれらに妙に厳しい社会でもあろう.それにまた,反発するというか反骨精神を持つ女性も多いのかもしれない.そこで,ふっと気軽に考えられる女性が,うまくいき,かわいい女性と見られることで,男性社会に受け入れられている女性も多いのではないだろうか.男性社会に反発して,私はこうする!と強がるよりも,柳のようにながされているようにみえて,きちんと自分のセンスも出せる,そういった女性がこの女性に妙に厳しいビジネスの世界で残っていけるのではないだろうか.

「暗夜行路」を読んでいて,見たことのない言葉を調べたので,書いておこう.

海容(かいよう)…海のように広い寛容な心で,相手の過ちや無礼などを許すこと.
掣肘(せいちゅう)…わきから干渉して人の自由な行動を妨げること.